万葉集でも詠まれた馬酔木 | 1300年間、愛され続けるその魅力とは
2024.3.12
目次
馬酔木(あせび)は、鈴のような小さな花々を垂らし、春の景色に風情を添え、万葉集でも詠まれるほど古くから日本人に愛されてきました。現在も晩春の季語として、たびたび和歌に登場します。しかし、その可愛らしい見た目とは反対に、馬も酔ったようにふらつくほどの毒を持つことでも知られています。
愛らしさとちょっぴり危険な香りをまとう馬酔木は、日本人にとってどのような存在だったのでしょうか。万葉集がつくられた飛鳥・奈良時代から、現代にいたるまでの和歌をご紹介します。
馬酔木の美しさを絶賛した万葉集
万葉集は、飛鳥時代から奈良時代にかけてつくられた歌集で、約4500首もの和歌がおさめられています。当時、馬酔木は「あしび」と呼ばれ、10首の和歌に登場します。そのうちの3首を見てみましょう。
(大伯皇女)
▼現代語訳
磯のほとりに咲く馬酔木を手で折ってあなたに見せたいけれど、そのあなたを見たという人は、誰ひとりとしていない
この歌は、大伯皇女が反逆の罪で死刑に処された弟の死に嘆いて詠んだ一句です。
「見すべき君が、ありといはなくに」は、現代の言葉に言い換えると、正確には「誰もあなたを見たと言ってくれない」という意味になります。当時、亡くなった人の魂がまだ近くにいてくれていると考えられており、悲しむ人に「あの人に会ったよ」と周囲の人が励ましを送ることがよくありました。しかし、国家に背を向けた弟については、誰もそのように言ってはくれていません。
手で折って大切な人に見せたくなるほど美しく咲く馬酔木が、弟をなくし、周囲から慰めの言葉ももらえない大伯皇女の深い孤独をより一層引き立てている一句です。
(大伴家持)
▼現代語訳
池の水面に影を映し、美しく咲いている馬酔木の花を、袖いっぱいに入れたいなぁ
奈良時代といえば、貴族がもつ庭園には大きな池があった時代です。その池に、鏡のように馬酔木の花がうつっていたのでしょうか。この歌では、池にうつる馬酔木と、美しく咲く馬酔木、その両方を詠っています。
袖にいっぱい入れたくなるほど大伴家持を魅了した馬酔木は、現代でいう小悪魔のようですね。袖にたくさんいれたいと思った理由のは、馬酔木の成分を身体に取り込むことで、自分自身を美しくしようとしたからという説があります。シンプルな文章ながら、当時の人々が馬酔木に惹かれたかが読み取れます。
(作者不明)
▼現代語訳
あなたのことを人知れず想う私の心は、山の奥深くに咲く馬酔木のように今真っ盛りなんです
現代人でも共感する人は多いのではないでしょうか。可愛らしくキュンとする一句ですね。「奥山」とは、人里から離れた山の中のこと。馬酔木の花は、ひとつひとつは米粒のように小さいですが、まるでぶどうの実のように多くの花を垂らし、遠くからでも見つけやすい花です。誰にも打ち明けていない恋心と、山奥で誰に知られる事もなく、満開に実をならす馬酔木を掛け合わせています。
これら3つの歌から、当時馬酔木の花は、貴族の庭園、そして山奥や磯のほとりなど自然界など、多くの場所で咲いていたことが分かります。そして、大切な人に見せたくなるほど、自分のものにしたくなるほど、もしくは恋心に例えられるほど、美しく魅力的な花と捉えられていたのでしょう。
また、大伴家持は今咲き誇る馬酔木をみて、袖いっぱいにいれたいと願い、3人目の歌人は満開の馬酔木を盛りと表していますが、その様子から、馬酔木の花が咲き誇るのは今だけということ、そしていつかは散っていってしまうのも分かっていたのではないでしょうか。移りゆく季節のなか、盛大に咲き誇る華やかさと、いつかは散ってしまう儚さを同時に描く詩からは、当時の人々と自然との関わりの深さを感じさせます。
平安・鎌倉時代、馬酔木は警戒されていた?
奈良時代が終わると、馬酔木はあまり和歌でつかわれなくなったと言われています。いくつか、馬酔木を含む歌も残っていますが、その美しさを詠った万葉集とは変わり、平安時代以降はやっかいな花・不吉な花として表されています。
(源俊頼)
この歌は、1055年から1129年につくられた散木奇歌集の一句。
玉田横野とつつじかげだ(榴岡)は九州の地名です。時期になるとその辺りには馬酔木が多く咲くのですが、馬酔木は毒をもち、馬がその葉を食べると酔ったようにふらつくことからこの漢字があてられました。馬を放しその花を食べないように警戒していることが分かります。
(藤原光俊)
藤原光俊は、1200年代を生きた公家で、歌人としても活躍しました。
祈ると聞くと、現代では良いことが起こるように祈る様子を思い浮かべるかもしれません。ですが、詩のあたまに「おそろしや」と書かれている通り、かつては呪いを意味する言葉でもありました。この当時、馬酔木は人の命を奪うために使われていた呪いの道具。なんだかぞっとしますね。
飛鳥・奈良時代のように頻繁に和歌に登場しなくなったのも、この恐ろしいイメージが強いからかもしれません。
明治時代以降の馬酔木の歌
馬酔木は現在も恐ろしい花と捉えられているのかというと、そうではありません。明治時代以降に詠まれた和歌を見てみましょう。
(北原白秋)
▼現代語訳
水辺にある馬酔木の若い木が、まだ小さいけれど、今まさに花を咲かせようとしている
冬から春にうつり変わる時期、今にも花を咲かせようとする馬酔木の様子を詠っています。平安・鎌倉時代の不吉なイメージがなくなったのはもちろんのこと、万葉集で詠われていたような賛美ともまた違いますが、その花が咲く美しい景色や、春の訪れを告げる様子を描いているものが増えるようになりました。
●馬酔木咲く 奈良に戻るや 花巡り
(河東碧梧桐)
●春日野や 夕づけるみな 花馬酔木
(日野草城)
●純白の房 しやんしやんと 花馬酔木
(新田須美子)
ひときわ目立って見事に咲き誇っているというよりは、春の道を歩いているとき、夕日が沈みオレンジ色の光が差し込むとき、その景色に溶け込みながらも人々の目を引く馬酔木の様子を想像させます。
日本人にとって、馬酔木とは
万葉集では、つい持ってかえりたくなるほどの美しさ、恋心のような愛らしさや見ごとに咲き誇る様子を詠っており、当時の人々が、その花を眺めてついうっとりしていたのが想像できます。その後、平安・鎌倉時代は、動物に食べさせてはいけないもの・人を呪う道具として警戒されていました。
時代によって印象を変える馬酔木ですが、現代も春の風景に華を添えるものとして多くの歌に登場します。時代によって捉え方は違えど、馬酔木は山々などの自然界に、そして人々が日々暮らしのそばに存在し続けていたのでしょう。
鈴のように小さい花をたくさんつける可愛らしさと、その裏に隠された危なっかしい様子。その2つの魅力をもつ馬酔木は、2月から4月にかけて花を咲かせます。
春といえば桜や梅が有名ですが、近所の公園、お庭、植物園、もしくは旅先などで馬酔木を探してみると、春は想像していたよりも可愛らしく華やかな季節であったことに気付かされます。今を生きる私たちにとって、馬酔木はどのような存在になるのでしょうか。見つけたとき、じっとその花を見つめ、馬酔木の魅力とは何なのか自分なりの答えを見つけてみるのも、花見の楽しみの1つかもしれません。
▼馬酔木の名前の由来や見ごろが知りたい方はこちらに記載しています。